2007年01月31日(水) 
 
ヒップホップとか呼ばれる音楽に縁がない。

それはつまりぼくがおじさんだということなのだろうが、あの、なんというのかラップの流れをくむと思われる、明確な旋律なくリズムだけで歌うあれに違和感があるのだ。よく説明できないが。ライム、とかいうものが駆使されるあれ。ほんとよく説明できないが。

なぜ違和感があるのか、今日気がついた。あれは加山雄三の「君といつまでも」とか石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」などに出てくる、旋律なきセリフを彷彿とさせるからだ。

幸せだなあ 僕は君といる時が 一番幸せなんだ
僕は死ぬまで 君を離さないぞ いいだろう?

っていうあれだ。

藤井フミヤ以降、これを真顔でやる人材が失われて久しいとおもっていたが、和製ヒップホップにその魂が引き継がれていたのだと思うと、ちょっとうれしくなる。

(総裁談)

2007年01月26日(金) 
 
いくつかお知らせです。

■工場好きのための鑑賞ガイド本がでます
工場鑑賞の第一人者である石井哲(wami)さんの写真とわたくし総裁の文章でお届けします。ぼくの原稿が遅れに遅れているので発売日がまだはっきりしません。すいません。

■「ダム祭2」にゲスト出演します
こちらはダム鑑賞の第一人者である萩原さん主催のイベントです。2月16日(金)18:30開場、新宿ロフトプラスワンにて。毎年この時期に「団地ナイト」やってましたが、今回はこちらでがんばります。

■「DESIGN QUARTERLY」の第5号が26日発売です
連載している季刊デザイン誌「DESIGN QUARTERLY」の第5号が出ます。今回は団地の色についてああだこうだと書きました。

■「熱中時間」の放送時間が変更になりました
総裁が出演しているNHK BS2の「熱中時間」の放送時間が1月から変わりました。BS2日曜日の21時からです。日曜の夜。これからは「サザエさん症候群」ではなく「熱中時間症候群」の時代です。

あと、先週末からずっと北京に行っていました。ステキな団地がいっぱいあるのに写真撮る暇は全くありませんでした。つらい。

(総裁談)
 
 


2007年01月19日(金) 
 
「ロマン」というやつが苦手だ。自動車が趣味の人が「クルマは男のロマンだ」と言っているのを聞いたことがあるが、こういう人の車と接触事故を起こすとたいへんなことになりそうだ。なんせ相手が乗っているのは自動車じゃなくて男のロマンなのだ。それは保険でまかなえるのか。

調べたら「ロマン」とはもともと「ロマンス」と同義と知った。びっくり。そうだったのか。だとすると先の発言は「クルマは男のロマンスだ」になる。そんなロマンスは嫌だ。なにかとても不健全な気がする。

「男の」が冠せられてさらにうさんくささ倍増の「ロマン」だが、これの女性版は「女のカンよ」だと思う(*)

---
*木の実ナナあたりがよく言ってそうなイメージがある。なんとなく。
---

(総裁談)
 
 

2007年01月18日(木) 
 
「ピリ辛」が納得できない。

どうも「ピリ辛」とは「ちょっとだけ辛い」という意味らしいが「ピリ」に「ちょっとだけ」って意味は見いだせない。むしろ「辛」が「ピリ」によって高められたと見るべきではないか。だってもともと「ピリ」って「辛い」って意味の擬態語(?)じゃないのか。

年始のバーゲンセールで「ふわ軽」と銘打たれたシフォンのスカートを見たが、「ピリ辛」の論理で行くと「ふわ軽」は「ちょっとだけ軽い」だ。いやいや、「ふわ」をつけることで「すごく軽い」が言いたかったはずだよ。やっぱり「ピリ辛」は「すごく辛い」であるべきだ。

なんでムキになっているかというとある人に「カモだよりってピリ辛ですね」と言われたからだ。でもよく考えてみたらカモだよりは「ちょっとだけ辛口」でもないし「辛口」でもないし「すごく辛口」でもない。強いて言えば「ふわ軽」だ。

(総裁談)
 
 

2007年01月11日(木) 
 
先月、青島幸男氏が死去した。東京都知事の経歴もある方だが、個人的に印象に残っているのは、テレビドラマ「いじわるばあさん」への出演だ。

長谷川町子原作のこのドラマ、タイトルそのままに意地悪なおばあさんが主人公で、青島氏はそのおばあさん役をやっていた。

男性なのに、おばあさん役、というのに当時衝撃をうけたのだが、今思うにこんな役を実際のおばあさんがやったのでは救いがない。そこに男の青島氏をあてることで「これはファンタジーなのだ」ということが表現されたのだと思う。細木数子がやっていたら、と想像するとそれがよくわかる。彼女がやったら、このドラマはノンフィクションになっていただろう。

いじわるばあさんをやった青島氏。議員時代は公約破りとの批判も多かった彼だがそういう意味でも彼こそ「ちょい悪おやじ」のはしりだったのではないかと思う。

(総裁談)
 
 

2007年01月09日(火) 
 
大晦日の夜、NHKの「ゆく年くる年」を見ていて思った。これはいわばカウントダウンTVじゃないのか。

カウントダウンTVといえばTBSの深夜番組だ。なんともゆるいキャラクターがハイテンションでCDや書籍の売り上げランキングを紹介するもの。

あんな調子で年明けをカウントダウンされたらいやだな、と思ったが、紅白歌合戦のまま年明けしたらあの番組に近い雰囲気になるんじゃないだろうかとも思った。

(総裁談)
 
 

2007年01月07日(日) 
 
今年の初詣は浅草寺に行った。お参りをしながら、子どもの頃から思っていた疑問をふと思い出した。お賽銭って何のためにあるんだろう。

それはもちろんお寺で働いている人の収入やお寺の維持費としての意味があるんだろうとは思う。すくなくともかつては。今もあのお賽銭が寺の主な収入源なのかどうかは怪しいところだが、少なくともかつてはそうだったに違いない。

賽銭が寺社をメンテする人件費ほかの費用の元ということであれば、確かに間接的ではあるがお賽銭は神様なり仏様のために支払っていると言えなくはない。しかし、じゃああれらの施設がなかったら神さまや仏様の居場所がないのかというとそんなことはないような気もする。だから感覚的にはお賽銭は神様あるいは仏様に対するものというよりは寺社にいる人間のためのものという感がぬぐえない。

一方で寺社で行う「お願い」というか「お祈り」というか、これはもう明らかに神様なり仏様に向かってすることで、いかに偉いお坊さんでも一介の人間の「家族が健康でありますように」などという願いを叶えてやる力などないはずだ。

しかるにユーザーのアクションは、お賽銭とお願いは常にセットで行われる。なのに上記のように前者と後者は別のものに対するものなのではないかという疑惑がある。お賽銭は人間に、お願いは仏様に。これはなんかおかしいのではないか。これが子どもの頃からの疑問だ。

ところで、この「お願い」は物理的にどの程度お距離で有効とされるのか、を考えてみよう。たとえばいまこうして自宅のパソコンに向かっている状態では一番近い寺社仏閣は1キロほど離れている。このまま椅子から立つことなくその方角へ向かって手を合わせて「お金持ちになりますように」と願っても、これは叶えられそうもない。

これは日本の至る所に大小様々のお寺や神社があるからそう感じるのではないかと思うのだ。仮に全国にお寺が一カ所しかなかったとしたら、遠くからお願いしても良しとされそうな気がする。具体的な例でいうならイスラム教のメッカなんかそうではないのか。世界中のイスラム教徒がメッカのそばまで行くことなく自宅などでメッカの方角を向いてお祈りをしていると聞く。それじゃだめだといわれないのは、イスラム寺院が日本の寺社ほとユビキタスではないからではないのか。

つまり、ご本尊の偏在性とお願いのための物理的距離の間には相関があるのではないかといいたいのだ。すぐそばにある環境ならば、足を運ぶべきと考えるわけだ。

じゃあ、日本の寺社の偏在具合ならどの程度まで近づくことが要求されるのか。神社だったら鳥居ぐらいまで行けばよいか。お寺だったら山門ぐらいまで行けばよいか。いや、叶えてもらいたいならもうちょっと近づくべきなのではないかという感じがする。

そう、この距離が「お賽銭を投げて賽銭箱に入る距離」として設定されているのではないかと思い至ったのだ。これはちょっとした発見じゃないだろうか。だからお賽銭の行方がお坊さんの懐でも別にかまわないのだ。あれはしかるべき距離まで近づくために行われる行為であって、もともと神様も仏様もお金など必要としていないのだから。

たいへんな混雑のために賽銭箱に近づくことができず遠くから賽銭を投げる群衆を見ながら、浅草寺でそんなことを思った年明けでした。

(総裁談)
 
 

2007年01月06日(土) 
 
ロハスな生活ぶりがどんなものかを耳にした。

・食べ物はできるだけ自給自足
・電気は極力使わない、もしくは自家発電
・なので夜は暗い。でもそれがいい

聞けば聞くほど、それは例の富良野での生活じゃないのか、という思いがぬぐえない。「蛍という名前の妹がいる」を付け加えてもよさそうだ。あんな辛気くさい生活は嫌だ。

ロハスな生活は、最後に家が火事になってしまうのかもしれない。ますますロハスはいいや、と思った。

(総裁談)
 
 

2007年01月01日(月) 
 
以前、町工場の現場におじゃましたことがある。

職人たちが忙しく往き来する仕事場。その一角にきれいに道具が並べられた台があった。見るといかにも使い込まれた見慣れぬものがたくさん。歯医者さんが使うような繊細な道具もあればでっかいスパナのようなものもある。どれも磨き込まれていていかにも頼もしそうな鈍い光を放っていた。

そのなかのひとつにフォークがあった。みなさんの家にもある、あの食事をするためのフォークだ。

フォークによく似た何かかと思ってよく見るがどう見てもふつうのフォークだ。ははーん。こういう日常用品を上手く利用するのも職人技というわけだな、と勝手に感心していたら、なんのことはない。それは職人がお弁当を食べたときに置き忘れたものだったらしい。

なんだよ。それらしいものと一緒に並べてあるから勝手に深読みしちゃったよ。

ところで、ドラキュラは十字架と太陽光線とニンニクに弱いことになっている。なぜこれらのものに弱いのだろうか。

血を吸うというのは神をも恐れぬ背徳的行為なのだろう。だから十字架を恐れるのは理解できる。太陽光線を恐れるというのも文字通り「日陰者の身」の象徴ということでよくわかる。でもニンニクはどうなんだ。ニンニクには何か宗教的意味合いとかあるのだろうか。

それらしいものと一緒に並べてあるから勝手に深読みしがちだが、たぶん単にドラキュラはニンニクが苦手なだけなんじゃないかと思う。

(総裁談)
 
 


2006年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2007年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2008年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2009年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2010年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2011年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2012年01月 02月 03月 04月 05月 08月 09月 10月 12月 
2013年01月 02月 06月 07月 11月 12月 
2014年03月 04月 10月 11月 12月 
2015年01月 02月 04月 06月 10月 
2016年01月 06月 07月