2004/06/30  

性格俳優って、なんだろうか。

派手さはないが良い俳優、というイメージがあるが、どうなのだろうか。

たぶん、性格が良いんだろう。しかしたとえば演技派俳優、とかなら分かる。演技は俳優の資質のうち最も重要なものだから。が、なんせ「性格」である。演技はからっきしだが、性格はとても良い。そんな俳優か。持ち前の性格のよさで現場を和ませちゃうのか。

「性格サラリーマン」とか「性格部長」とかもときおり目にするが、現場はあまり和まない。

演技派部長もときおり目にするが、俳優と違ってこれもやだ。

(総裁談)



2004/06/29  

いまさらの話題ですが、民放連が「青少年に見てもらいたい番組」の一覧を発表したらしい。

その一覧とは「ちびまる子ちゃん」「ドラえもん」「伊東家の食卓」「世界・ふしぎ発見!」などなど。青少年問題への対応策として、青少年の知識や理解力を高め、情操を豊かにする番組を選定したとのこと。

また、日本PTA全国協議会は親が子供に見せたくない番組として「ロンドンハーツ」をトップに挙げた調査結果を発表している。

こういうランキングをするにあたっては、かつて好感度タレントランキングで山田邦子さんがずっと1位だったことを忘れてはならないと、つくづく思う。

(総裁談)



2004/06/28  

ある作家のインタビューで、外国語を勉強したことによって日本語をより深く知ることができ、日本語の持つ可能性を広げることができた、というコメントを読んだ。

ぼくが外国語によって知った日本語の可能性は、中学校のとき英語ででてきた「one of the most 〜」というやつだ。よくある例文では「この山は日本で最も高いもののひとつです」とかいう文章だ。

「最も高いもののひとつ」て。「最も」って一番じゃないのか。

たぶん、もともと日本語にはこういう文章はなかったはずで、「one of the most 〜」を無理やり訳したらこういう無理やりな日本語の可能性が広がっちゃったのだと思う。

先日、営業に来た会社のパンフレットには「わが社のテクノロジーは世界で最も優れたもののひとつです」とあった。なんとなく信用できない。

可能性は広がれば良いというものではないと思った。

(総裁談)



2004/06/24  

無限にはレベルがあるそうだ。

有理数(整数とか分数とか)は確かに無限にあるが、その無限よりも無理数(ルート2とか、円周率のパイとか)の無限ほうがより大きいのだという。

無限の世界は奥深い。そもそも、「無限」自体が、数学の専門家でないぼくにはイメージしづらい。

あと、ラーマソフトは新商品を出すたびに「さらに美味しくなりました」と言い続けているが、あの無限もイメージしづらい。

(総裁談)



2004/06/23  

鬼太郎は近くに怪しい妖怪がいると髪の毛がピンと立つらしい。

ところで団地について調べようと、検索サイトで「団地」と入れると、工業団地や団地妻についてのページが出てきてしまう。

そういう場合は除外したいキーワードの前に「-」を入れて検索する。この場合は「団地 -工業 -妻」とするとよい。

鬼太郎の妖怪検索エンジンは「妖怪 -自分 -オヤジ」というキーワード設定なんだと思う。

(総裁談)



2004/06/22  

小学館は著作権侵害に対して厳しいときいた。

とくにロングセラーの稼ぎ頭、ドラえもんに関してはうるさいそうだ。

仕事でお会いした小学館の方も「最近はネットで勝手に利用する人が多くてね、目を光らせてますよ」といっていた。

「うまい棒」のキャラクターを野放しにしておいてよく言うよ、と思った。

(総裁談)



2004/06/18  

整髪料のCMで「これで雨の日も広がらない」という言葉をよく耳にする。

ぼく自身は雨の日に髪が広がったことがないので、いまひとつその便利さに実感が持てない。むしろ、雨晴れ問わずぼくの髪は広がっている気がする。

というか、本当に雨の日に髪は広がるのか。本当は広がりはしないんじゃないだろうか。「言われてみれば、なんとなく広がっている気がする…」という感じでメーカーにだまされていやしないか。

あるいは、実は、髪ではなく他の身体部位の広がりをおさえる効果があるのかもしれない。それはどこなのか。一見CMでは髪の毛が広がるかのように表現しているところを見ると、広がりを指摘しづらい部位なのだろう。

CMに起用されているのが伊東美咲さんや小柳ゆきさんだったら、推して知るべし、なのだが。

(総裁談)







2004/06/17  

流行というものは怖いもので、その時代のただ中に身を置いている者にはその滑稽さが分からなくなっている。

たとえば「光GENJI」。当時は多くの若い女性を虜にした実績のある彼らだが、今思えば、あんまりな名前だ。「光GENJI」だよ「光GENJI」。真顔で言うことか。

こういったものはその時代を知らない後世の若者達に笑い者にされる運命だ。諸星くんを知らない今の中高生にとっては「光GENJI」ってかなりおかしな言葉だと思う。

プロ野球界ではいま1リーグ制が取りざたされているようだが、これが実現されたあかつきには「セ・リーグ」「パ・リーグ」の名称も笑い者になるのではないだろうか(*1)。セ・パだよ。セ・パ。

1リーグ制のあおりを受けて「大リーグ」とも呼ばれなくなるのだろうか。大だよ、大。漢字。アメリカなのに。

---
*1
「ブログ」もはやく滑稽な言葉として認知されるようになって欲しい。

---

(総裁談)




2004/06/15  

若い女性向けのファッション誌を立ち読みした。

よくある「一週間の着回し術」というコーナーがあった。モデルになっている女の子は「都内の大学に通うユカちゃん20歳」かなんかで、彼女の一週間の出来事とからめて、その華麗な着回しぶりが情緒豊かにつづられていた。

問題はその一週間の出来事だ。

月曜日・今日のランチはお気に入りのカフェで
火曜日・友達に誘われてイベントへ
水曜日・ファッション誌の撮影を頼まれて都内某所へ
木曜日・美術館でアート鑑賞
金曜日・友達がはじめたお店のオープニングイベントへ
土曜日・彼とのデート
日曜日・テニスに初挑戦!

それぞれのシチュエーションに合わせた毎日の小粋な着回しっぷりはよいのだが。どうなのだろうか。最近の都内の大学に通う20歳の乙女は毎日こんなにバリエーション豊かな毎日を送っているのだろうか。

もちろんこの薄っぺらな出来事たちは、雑誌編集側が描いた虚構の「いまどきのファッショナブルな女の子」の毎日なわけで、服の着回しより毎日のシチュエーションの着回し術をどうにかした方がよいのではないかと思った。

(総裁談)



2004/06/12  

韓国のドラマが大人気ですが。

特にブームの火付け役となった「冬のソナタ」の人気は一向に衰える気配を見せない。人気作品には続編ができるのが世の常なのできっと「冬のソナタ・2」がそのうち登場して世間をわかせるのだろうと思う。

などと書いておきながら実は韓国ドラマには全く興味がなく、上記「冬ソナ」もちらりとも見たことがない。流行に疎い自分。いつものことながら「なんだよ冬ソナ冬ソナって」とちょっと拗ね気味だ。

しかし実は「生ゴミ餃子」が続編だったのならしてやられた、と思う。

(総裁談)




2004/06/10  

「大戸屋」という定食屋のチェーン店がある。

ところで世の中の商品やサービスにおいては、質と価格の間に、ある一般的な関係がある。

安いものは機能が少なかったり、不便だったりする。つまり、「質のよくないものは安い」あるいは「安いものは質がよくない」というものだ。

当たり前のことのようだが、しかし、よく考えるとたいていの商品やサービスがこの法則にのっとっているというのはちょっと不思議なことだと思う。たとえば養殖のウナギより野生のウナギのほうがおいしくて高いらしいが、養殖より野生の方が捕まえるのにコストがかかるのは理解できるが、そのことと野生のものの方がおいしいということの間の関係は自明ではない。安いほうが質がよくて、高い方が質が悪いものが世の中にはもっとあっていいのではないだろうか。

そんななかで前述の「大戸屋」の定食は、そこそこおいしくてしかも安い。素晴らしい。やはり、法則は万能ではなかったか。

と思ったが、大戸屋の店内の壁には、相田みつを風の作品が必ず飾ってあることに気がついた。のたくった筆文字で「健はからだ、康はこころ。そうなんだよなぁ」とか。うざい。めしがまずくなる。

食べ物自体は安くて質がよいが、やりかたに少々工夫が凝らすことで、「やっぱり安いものは質が悪い」を実践する大戸屋。そんな工夫するな。

(総裁談)





2004/06/08  

中学生か高校生の頃、社会の授業で各国で使われている世界地図を見た。

どの国も自分の国を真ん中において描いていた。イギリスの世界地図はイギリスが中心で、日本はほんとに「極東」の位置にあって、ちょっとしたショックだったことを覚えている。

その後、特に「大国」と呼ばれる国は単に地図の中だけの話でなく精神的にも自分の国が世界の中心だと思っていることを知った。当時アメリカは「世界の警察官」と揶揄されていたし、「中華思想」という言葉も知った。

小学生の頃はもっとシンプルだった。当時「世界の真ん中はどーこだ?」というなぞなぞがあって、答えは「か」だった。

ぼくらにとって世界の中心は、「か」だったのだ。アメリカでも、中国でも、日本でもなく。


あと、愛を叫ぶ場所でもなかった。

(総裁談)






2004/06/07  

納品したものの不具合の報告を受けて、開発陣と議論になることがある。

「これは不具合ではなく、仕様がそうなっているからだ」と主張する開発陣に対して、やんわりと「いやいや、これはミスでしょ」と問いつめる、という場面が展開される。あくまでやんわりと。

「ふつう、常識的に考えて、こうれはおかしいなーって感じですよね?」
「一般人の感覚からしたら、まあ、なんかおかしな印象を受けますよね?」
「お客さんからしたら、あれーって感じですよね?」

など、「ミスだろ、修正しろよ」というメッセージをあくまで、やんわりと。

自宅マンションの9階から「落下」したタレントさんの事務所が転落は「事故」 だと主張するのに対して、報道各社の「まあ、ふつうに落ちたらそんなに遠くには落ちないですね」とか「横方向に何らかの加速度があったと見られます」とかのやんわりとした表現がこれにあたります。

(総裁談)



2004/06/06  

この時期、髪型がおかしい、というような話題はあまりするべきではないのは重々承知の上ですが、それでもなおあの髪型はどうにかならないか、と声を上げざるを得ないのは日曜夜のNHKの番組「N響アワー」に出演している池辺晋一郎氏のそれだ。

個性的、といえば聞こえがよいのだろうか。分類的にはいわゆるなつかしの「バーコードヘアー」と呼ばれるたぐいのスタイルだ。

それこそ彼が掲示板を開設していれば、危険を承知の上で髪型について苦言を呈する書き込みを行いところだが、残念なことに彼はご自身のサイトを持っていないようだ。ブログも。

同じ「N響アワー」のレギュラーで池辺晋一郎氏の相手役を務める若村真由美さんも、一言いってやればよいと思う。

アリーだったらそれぐらい言え。

(総裁談)




2004/06/06  

家の近所で「房総郷土のお菓子『オランダ家』」というお菓子屋さんを見つけた。

また、先日はとなりの駅の船橋駅の寿司屋に行ったが、その店の名前が「築地 日本海」だった。

浦安にあっても「東京ディズニーランド」に違和感を感じない県民性はこうやってはぐくまれてきたのだなあ、と思った。

(総裁談)



2004/06/05  

小説家を目指す人が主人公の小説ってけっこう多いような気がする。

あと、漫画家とかイラストレーターを目指す人が主人公の少女マンガとか。

作者がもっともよく知っている分野は当然、その作者の手がけている表現の世界なので描きやすいのだろうが、どんなものだろう、と思う。ずいぶん手前味噌というか、手近で済ませちゃったなあ、というか。

最近流行のblogだが、やたらとblog自体について書いているblogが多い。blogが広げるコミュニケーションの可能性、とかblogがジャーナリズムに与える影響とか、最新blogの仕組みとその活用方法とか。なんだそれ、って思う。

テレビ番組の多くがブラウン管の説明とかだったら、だれもテレビなんて見ないと思う。

(総裁談)



2004/06/04  

最近話題の三菱自動車。あらたに11万台のリコールが届け出られたということで、同社の先行きが心配だ。

先日も「雪印みたいにもう三菱自動車っていうだけでやだよな」などと話しているのを耳にした。ブランド失墜をどう挽回するか。不祥事で一歩先をいった雪印に学ぶことは多いと思う。

「MEGUMITSUBISHI」だな。

(総裁談)




2004/06/02  

オフィスの先輩で「イケてる」というのが口癖の人がいる。

「マジでヤバい」という表現もいたくお気に入りのようでよく耳にする。

「もうその言い方は古いですよ」と注意してあげたいのだが、言い切れない自分がいる。どうなのだろうか。これらの言葉はまだ有効なのだろうか。

おっさんになっていくのには段階があって、流行語の使い方で言えば、まずその表現がまだ使って恥ずかしくないものなのかどうなのかが分からなくなって(今のぼくの段階)、その先の段階が恥ずかしいかどうかが気にならなくなって使ってしまう(先輩の段階)、という順番だ。

ぼくの現在はまだ迷っている段階なので、ここで一踏ん張りすれば現役の若者に戻れる可能性はあるような気もするが、実分かっていつつ、緩やかにしかし確実に先輩の状態に落ち込んでいくのだと思う。

分かっていつつ、おっさんになっていく自分をとめられない悲しさ。

そして最後に「どうかどうか、ついでがあったらアルジャーノンのお墓に花束を添えてやって下さい」って言うのか。

(総裁談)



2004/06/01  

「着たきり雀」という言葉がある。

同じ服を着たままの人を揶揄する言葉のようだが、これはもちろん「舌切り雀」のもじりだ。

しかしどうだろう。「〜きり」が同じというだけで昔話にあやかって最後に「雀」をつけるのは。ぜんぜん関係ないじゃん。それは粋なのか。してやったりのエスプリなのか。

などと思っていたら、先日会社の先輩が「外出したまま直帰する」ことを「出たっきり雀」と表現していた。ぼくが想像するよりはるかに「〜きり雀」の表現は応用が利くものらしい。

もしかして「とびっきり雀」とか「どっきり雀」とか言っている人もいるのかも知れない。いまも息づく日本の文化、昔話。その影響力の大きさを感じる。

でも「とびッきり」や「どッきり」と「っ」をカタカナにするだけで「雀」ではなく「テレビ」が続きそうな感じがする。

やはり昔話もテレビにはかなわないといったところだろうか。

(総裁談)



2004年5月のカモだより